“声を持たないヒーローたち”が世界の舞台へ

“声を持たないヒーローたち”が世界の舞台へ

〜デフリンピックへの挑戦〜

『“声を持たないヒーローたち”が世界の舞台へ

 〜デフリンピックへの挑戦〜』


ネパールには、約30万人以上のろう者・聴覚障害者がいます。

日本の約4分の1の人口規模にもかかわらず、その数はほぼ同じ。

つまり、日本の4倍もの人々が、静寂の中で生きているのです。

彼らは音のない世界で、日々の生活と社会の壁、
そして理解の届かない現実と闘っています。

それでも、彼らはあきらめません。

手話で笑い合い、柔道やスポーツで未来をつかもうとしています。
このクラウドファンディングは、

そんな“声を持たないヒーローたち”が世界の舞台―
―デフリンピックへ立つための挑戦です。


『なんでそんなに聴覚障害者が多いのか?』


なぜ、こんなにも多くのネパールの人が耳の聞こえない世界で生きているのでしょうか。
その理由は一つではありません。

たとえば、
幼い頃に中耳炎を患っても、
薬も病院も遠く、
気づかれないまま、音のない日々が始まる子どもたち。

またネパールの地方の村では、

高熱を出した幼児が山を越えて診療所にたどり着く前に、
聴力を失ってしまうこともあります。

医療へのアクセスの難しさ、
貧困、教育の不足、
そして「聞こえないこと」への偏見――。

そうした要因が複雑に絡み合い、
多くの子どもたちが“静寂の世界”に取り残されていくのです。


『自己紹介』


私は2017年に日本からネパールへ移住し、今年で8年目を迎えました。

現在はネパールを拠点に、カメラマン・ビデオグラファーとして、ネパールの現地の現場を記録しながら暮らしています。

ネパールに来る以前は、日本でろう学校の教員をしていました。

耳が聞こえない子どもたちに勉強を教え、日本の手話を使いながら彼らと心を通わせてきました。


私が初めてネパールを訪れたのは学生時代のことです。
ネパールに初めて来た時に路上で暮らす子どもたちが柔道を通して礼儀や規律を学び
社会の一員として生きる力を身につけている姿に深く心を打たれました。

柔道が単なるスポーツではなく、“生きるための道徳教育”として機能していたのです。



その光景が、私の人生を大きく変えました。

「柔道を通して、誰もが生きる力を持てる社会を」

そんな想いで始めたネパールでの柔道支援活動は、やがて多くの仲間と出会い、

2020年にはテレビ番組『こんなところに日本人』でも紹介されました。


『「声なき声」に出会った日から』


私がネパールで暮らしはじめて3年目のことでした。

ある日、カトマンズで開かれた柔道大会に、ネパールのろう者の子どもたちが見学に来ていました。
私は日本でろう学校の教員をしていた経験があり、思わず彼らに話しかけました。

しかしすぐに気づきました。

――「手話」という言語は、世界共通ではないのです。

日本の手話は通じず、彼らの表情は戸惑いに包まれていました。

「伝えたいのに、伝わらない」
その瞬間のもどかしさは、今でも忘れられません。

大会が終わったあと、私はその場にいたネパールの手話通訳士に尋ねました。

「ネパールの手話って、どこで勉強できるんですか?」

次の日から、私は手話学校に通いはじめました。
半年間、ひたすらネパール手話を学び、ようやくろう者の人たちと手話で会話できるようになりました。


そしてついに、再びあの子どもたちのもとを訪ねました。

今度こそ、自分の手で想いを伝えるために。

会話ができるようになって初めて知った現実。
それは想像を超えるものでした。

ネパールでは、ろう者の女性が性被害に遭いやすい。


声を出して助けを呼べず、警察に行っても相手にされないことがある。

「聞こえない」という理由だけで、守られない命があるということを知りました。



私は子どもたちに問いかけました。

「柔道ってやってみたい?柔道はね、護身術にもなる。襲われても、自分を守れるんだ」
すると、子どもたちは一斉に手を動かしました。


「やりたい!」――その手話が、まるで光のように見えました。


そして2019年。

私たちはネパールで初めての“デフ柔道場”を設立しました。


あの日の出会いが、今につながっています。
声を出せない子どもたちの「声なき声」を、柔道という道で世界に届けたい。

それが、私がネパールで生きる理由です。


『デフリンピックへの道 〜“声なき柔道家たち”の挑戦〜』


最初は「護身術のため」に始めた柔道でした。

けれど、週3回の稽古を重ねるうちに、子どもたちの目の輝きが変わっていきました。
いつしか彼らは言いました。

「好きなスポーツは柔道です」と。

柔道は、彼らの身体に、そして心に染みついていきました。
柔道は単なる護身術ではなく、“生きる力”そのものになっていったのです。


――そんな折、東京でデフリンピックが開催されるというニュースが届きました。

私はすぐにネパールのスポーツ省の扉を叩きました。

「どうか、ネパールからもデフ柔道の選手を出場させてほしい」

何度も、何度も通いました。
けれど、最初の答えは冷たく、そして重かった。

「NO」。

理由はーー
ネパールにはまだ“デフ柔道の実績”がないから。
国として代表を認めるには、前例がなさすぎるというのです。

それでも諦めませんでした。
私は仲間たちと共に、ネパール国内でデフ柔道大会を企画し、記録を残し、

「この活動は本物だ」と何度も証明していきました。
気がつけば、嘆願と挑戦の歳月は2年を超えていました。


そして――ついに。
ネパール政府が「ネパールのろう者選手たちを、デフリンピックへ派遣する」ことを正式に承認したのです。
これまでのデフリンピックでは、ネパールから個人参加の選手が一人二人行ったことはありました。

しかし、正式な選手団体制を整え、複数競技に出場するのは今回が史上初。

柔道の代表は男子60kg級・ラッキー・チョウダリ。
女子代表は52kg級・ススマ・タマン。


もし柔道に出会わなければ、彼らはただの「聴覚障害者」として社会の中に埋もれていたかもしれません。
けれど今、彼らは“ネパール代表”として国を背負い、世界に挑もうとしています。

畳の上で闘うその姿は、
ネパールの次の世代にこう伝えるでしょう。

「たとえ耳が聞こえなくても、夢は世界に届く」

この挑戦は、ただのスポーツではありません。

それは、“声なき者たち”が自らの手で未来を掴もうとする、希望の物語なのです。



『デモに負けない、ネパール代表の決意』


2025年9月8日、ネパールでは若者を中心とした大規模なデモが発生し、国の政治が大きく揺れ動きました。

その影響で当時の首相が退陣し、現在は新たな政権づくりが進められている最中です。
しかし、いまだにスポーツ関連の予算を管理する担当大臣が正式に任命されておらず、

デフリンピック出場に関わる資金の確保や手続きが滞っている状況にあります。


それでも、ネパール代表として夢を追い続ける選手たちは、
電気も十分でない道場で、限られた環境の中でも、
毎日、畳の上で汗を流し、技を磨いてきました。

政治の混乱や制度の壁に負けることなく、

ここまで努力を積み重ねてきた選手たちを、どうか「東京デフリンピック」へ送り出したい。

その想いから、このプロジェクトを立ち上げました。

このプロジェクトを通じ、ネパールの選手たちにとって

「夢の舞台への一歩」になります。

小さな応援でも、その一歩が彼らの希望をつなぎます。


『最後に』


今回、日本・東京で開催されるデフリンピックに出場するネパール代表チームは、計6名です。

<出場メンバー>

選手(2名)
男子60kg級:ラッキー・チョウダリ
女子52kg級:ススマ・タマン

デフ柔道コーチ:サンジット・ドンゴル
ネパール障害者柔道協会 会長・通訳者:ダルマ・クマル・スレスタ
デフホステル・通訳者:ロジナ・スレシュタ
通訳・プロジェクトリーダー:古屋 祐輔


本プロジェクトを通じて得た利益は、日本遠征のために使用します。
余分に得た利益については、今後のネパール・デフ柔道場の新設費用、およびデフ柔道の継続的な運営資金として大切に活用させていただきます。

この挑戦は、ネパールのろう者アスリートたちにとって、
「自分たちにも世界の舞台がある」という希望を灯す第一歩です。

どうか、あなたの温かい応援で、
彼らを東京の畳へと送り出す力を貸してください。