ネパールの変わらない優しさに学ぶ

ネパールの変わらない優しさに学ぶ

コロナの影響を受けたネパールの農村200世帯へ食事を。

ネパール…それは「祈り」の国。

町の中に立ち並ぶ寺院からは読経の声が響き、やがてそれは風に乗って雄大なヒマラヤ山脈へと流れていく。ネパールで暮らす子供も、大人も、誰もが「祈り」が当たり前の文化として生活に根付いており、彼らの「心」は慈しみにあふれている。


――2020年3月24日、COVID-19によるロックダウン政策が、ネパールでも開始された。

当時から3カ月が経とうとしている現在、ロックダウンが解除される気配はない。隣国、インドでの感染拡大が影響し、 6月1日には一日あたりの感染者数が8,392人に昇った。ネパール国内でも急激に感染者が増加し、感染拡大の深刻化はこれからが本番という状況だ。



首都、カトマンズから数十キロ離れた山間の村で暮らす人々はいま、困難な状況に置かれている。


「もう、食べるものが、いつ尽きるかも知れない、じゃがいもだけです」


たどたどしい日本語で、助けの声を求める声に、ある一人が動きだした。

古屋祐輔、彼はネパールの一人の子供に導かれ「人を信じる心」を養い、ネパールの魅力に取りつかれた一人だ。彼は現地で活動する、日本のNPO法人DREAM-Hackと手を取り合い、ネパールの素晴らしい心を、文化を支援する決意を新たに走り出した――


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ここから先は、古屋氏によるストーリーをご紹介します。

一人の想いが、人から人へ、国から国へつながり、「One Love」となるためにも、ぜひ読んでください。

そして、いますぐにでも手を差し伸べなければ消えてしまう命があります。

皆さんのサポートをお願いいたします。



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コロナは世界を変えた。


コロナは人の生活を変えて、社会のあり方を変えて、人間が今まで培っていた価値観も変えた。

職場への通勤がなくなり、在宅での仕事が始まった。飲み会もオンラインで済まされるようになった。学校の授業までもが、パソコンを通してでの学びの場が設けられるようになり、今後は部活動やスポーツの意義も問われてくることになるのだろう。


誰もが変えようとしても、変えることができなかった社会というものをコロナは一発で変容させた。


かつてアメリカ合衆国の大統領であったオバマ氏は自身の政策のスローガンに『Change』と掲げて、アメリカという超大国を先導しようとした。昨今、本屋に行くと「今こそ〇〇の変革の時だ」「今日から自分を変える3つの方法!」みたいな本が平積みされているのをよく見かける。勢力盛んな人たちは、今の社会を見渡してなのか居酒屋で酒を飲みながら「世界を変える!」と豪語している。そんな姿を度々見てきた。


人は世界を変えたいと思っている。


経済雑誌を読めばイノベーションや技術革新という言葉を必ず見かける。前例にとらわれない革命的な開発は何よりも世界を良くしてきた事実がある。変化のおかげで人間の生活はより便利になり豊かな世界になった。


世界が変わることは、世界が進歩することであった。



世界を「変えない」ための力に舵をとる


だが、現在、コロナが世界を変えている状況において、急速に『変わる』世界について考えていきたい。「変える」事が本当に正しいのか? コロナで変わりゆく世界の中で一度問うべき問題だと思う。


人間が果たしてきた変化は、世界をより便利で豊かな社会を築いた事実もある。一方で、世界の変化によって、人々は共存の世界から個人主義、自己責任論への世界へ走らされた。利便性の追求をしすぎた社会は、人と人との分断を招いている側面も否定はできない。


私は今ネパールという開発途上国で暮らしている。

利便性や合理性という基準からみたら遅れをとり、途上国と呼ばれる国ではあるが、今だに人と人とが助け合い共存し、先進国とは別の基準での豊かさがある。全体論ではないが、少なからずネパールで生活している私にはそのように見える。「変わらない」ネパールにこそ、何か私たちが本当に求めていた世界が垣間見える事もある。


今現在、コロナが世界の様々なもの変えている。変化がプラスの側面だけでなく、人間が培ってきた社会、文化、歴史、人間の生き様がこのコロナによって一瞬で変えられ、今後失われるかもしれない危険性をも帯びている。


コロナが世界を変え、人々の繋がりを失わせようとしているのなら今まで目指していた、世界を「変える」ための力から、世界を「変えない」ための力に舵をとる必要があるのかもしれない。


世界が発展すると同時に、今後の世界が“よりよく変わっていくためにも、私たちはネパールのような国からも学び、そして共に理想とする世界を作っていかなければならない。


ネパールという開発途上国の人たちや、そこに住んでいるかけがえのない人たちがこのコロナの影響で変わり、そして、その命までが失われかけているのであるならば、今こそ世界を「変えない」ために力を使いたい。


コロナの影響くらいで変えてはならない。

「ネパールの優しさを変えないためにも」



これから始まるのは、20代から頻繁にネパールを訪れ、「ネパールの優しさ」に触れてきた私、古屋祐輔が初めてネパールに行った11年前のお話です。11年前のネパールでの出来事が人の生き方を、価値観を変え、そして現在ネパールに住むまでにいたらせました。日々変わりゆく世界の中で、この「ネパールの優しさ」が未来においても変わらず残ってほしいと、そんな思いが伝わるような文章なら嬉しいです。


ネパールの優しさを変えないためにも


2009年8月。

僕は初めてネパールの地に足を下ろしました。


飛行機から一歩降り立った瞬間から焦げたお香の匂い。乾燥した喉に焼け付く空気の味に、外はけたたましいクラクション。町には延々と民族音楽が流れ、歩けば浅ましい顔つきをした客引きが声をかけてきます。


初めての海外がネパールだった僕は、日本と全く違う異文化に飲み込まれそうでした。

人がごった返した首都のカトマンズは、様々な声や響きが遠く近くで交差し、五感全てを警戒させ慎重に歩いていました。



なぜネパールに行くことにしたのか?


昔から世界の旅や、アジア周辺諸国に興味があったとか、ネパールに行くのに最もらしい理由があれば示しがつくのですが、残念ながらそんな自然な理由はないのです。

私がネパールに行った訳は、大学の先輩に「古屋、ネパールに行ってくれないか?」と言われ断れなかった、というなんとも消極的な理由でした。


世界を旅していた先輩はネパールを訪れた時に児童養護施設に訪れました。そこで出会ったネパールの子供たちや施設で子供たちのために働くネパール人の職員に感銘を受けたそうなんです。


私が当時出会った先輩は破天荒な人でした。柔道家であった先輩は就職活動で全滅。その失敗をバネにしたのか「世界一強くなりたい」と言い張り、昔ながらの柔道破りの形で世界を周遊していました。世界の柔道場を探しては旅をし、試合を求め、言葉が分からない場所でも柔道を通して会話をし、強さだけを追い求めていました。


だが、そんな先輩の強さへの執着は、ネパールのストリートチルドレンを保護している施設で意外な形で解かれることになりました。そこでは教育の一環で子供達が柔道をしているのです。ヨレヨレでサイズの合っていない柔道着をきて、汗水を振りまきながら、子供達が柔道を楽しんでいました。

今まで「勝つか負けるか」でしか考えていなかった柔道が、ネパールでは子供達の人生を支えるものになっている。柔道は勝ち負けではない教育だ。先輩はネパールで感銘を受けたのです。その時に「このネパールに何かしたい」そう思ったのだそうです。



先輩は日本に帰国するないなや、僕に電話をし「ネパールに行ってくれないか?」そう尋ねてきたのでした。先輩は「ネパールに何かしたい」と思ったらしく、僕にその思いを託そうとしました。ただ今こうしてネパールで暮らし、支援を必要としている施設や村と外部をつなぐ役割を担っている自分を見ると、先輩には先見の明があったのかもしれないと思います。



ネパール人が持っているもの


先輩の命令を受けて、私は先輩が訪れたCWCNという元々ストリートで暮らしていた子どもたちを世話している児童養護施設で生活を始めました。


児童養護施設に入ると子供は男の子ばかりの12人。子供達は皆、私が来てくれることを待ってくれていたようでした。そして、初対面にも関わらず、外国人である私に興味津々で、近寄り懐いてきてくれるのです。



「名前はなに?」「趣味は、、、なに?」


たどたどしい英語ながらも何とか必死にコミュニケーションを取りたいと声をかけてきます。素性も知らない見ず知らずの自分に対しても簡単に懐に入り、こんな自分にお腹を見せた犬のように無邪気にはしゃいでなついてくれるのです。


11年前はまだスマホもない時代で、旅をするには旅行記や雑誌などでしか情報が得られませんでした。私が手にした本には、「海外では盗難に気をつけろ」「最初は仲良くし油断させてから、盗もうとする」そんな言葉ばかりで溢れました。初めて海外に一人で行くという事もあり、頭の中で何度も「油断してはダメだ」と刻み込んでいたのです。


そのため、悲しいことに今、目の前にいる子どもたちが自分に近づこうとするのも「油断されるためではないのか?」としか思えませんでした。

子供達が私を信頼して懐いてくれたのに対して、私は子供達を信頼することができなかったのです。


もしこれが海外ボランティアーツアーとかで参加して子供達と出会っていたのなら違ったかもしません。しかし、なにせ私は世界を旅していたというだけの先輩に言われるがまま、ネパールに来ているに過ぎません。どうしても「騙されているかもしれない」という猜疑心が心を覆ってしまいます。


猜疑心と葛藤


ネパールの滞在は2週間でした。

子供達に対して「盗まれるかも」との思いを抱えながらも、孤児院での生活は楽しいものでした。子どもたちと笑ったこと、遊んだこと、日本語を教えたら、次の日から早速「コンニチハ」「アリガト」と挨拶してくるようになったこと、子供達の純朴さに心が洗われる毎日でした。



最後のお別れの時。

子どもたちは悲しそうな顔をしながらハグをしてくれます。何人かの子供は、自分の宝物ボックスのような箱から、小さい人形やメダルなどをプレゼントしてくれました。


もうこの子供達とは会う事ないのだろうか、私自身も最後は子供達との別れを悲しく思いました。

しかし、それでも私の頭の片隅からは、最後の最後まで、「騙されてはいけない」という意識が離れることはありませんでした。

肌身離さず付けていた金銭の入ったウエストポーチを盗まれてはいけないと強く握りしめていたのです。


どうしても最後まで子供達を信じることができなかったのです。



20ルピーと5ルピーに含まれているもの


2週間のネパールの旅が終わりました

無事に帰国し、結局何も盗まれることはなかったと安堵していました。このネパールの経験をいい思い出として、また日本での生活を勤しもうと思っていました。

荷ほどき中、バックパックを整理していると、カバンの奥にしまった覚えのないネパール紙幣がでてきたのです。そしてそのネパール紙幣には文字が書かれているのです。


“me Dinesh, yusuke don’t forget me Dinesh”

ユウスケ、僕を忘れないで――ディネス


“I always remember OK”

僕はずっと覚えているよ。


ディネスは子供たちの中で僕に一番懐いていた子です。

孤児院の子どもが僕の気づかないところで、そっと入れていてくれたのです。


私はずっと子どもたちは何かを盗むと思っていました。どれだけ懐いても、この笑顔を見せて、気を緩めさせたときに盗むのだろう、と疑いの念は最後まで消えませんでした。


ですが、彼らは一切そんな事を考えてはいなかったのです。

私が来てくれたことに対して、純粋に喜び、親しくなりたいからこそ、近づいて来てくれていました。


「ストリートで生活していたから…」「途上国だから…」きっと盗むのだろう。そんな色眼鏡でしか見れていなかった自分を引っ叩きたかった。



人間にとって本当に大切なものは何だろう。

確かにネパールはインフラも整っていなければ、仕事もあまりなく、問題が多い国なのかもしれない。でも、日本で生きていた私が忘れていたものがこの国にはあります。


「人に思いやりを持つ心」


このネパールには人を信じてくれる心があります。私たちが忘れかけていたものがあります。


ネパールの子供達が教えてくれた人と人との向き合い方が、未来、時代がどんなに変わろうとしてもずっと保っていられるように。そして、私が忘れていたように、多くの人が大切なものを思い出せる場所が地球に残ってほしいと、強く思うのです。



11年前のネパールでの経験を経て。


あれからネパールのことが忘れられなくなっていました。日本で生活していてもネパールの風景、生き生きとした活気ある町、そして感情豊かなネパール人のことをすぐに思い出してしまうのです。

けたたましいクラクションや街を行き交う人たちの生き生きとした表情、日本では味わったことなかった自然や風光明媚な風景が恋しくなってくるのです。



そして3年前に30歳という節目でネパールに移住する決意をしました。

ネパールに移住してからは現地に根ざした活動となるように、ネパールの人たちの声を聞き、先輩とともに柔道の支援を行いました。それ以外にも、教育支援をはじめ様々なNPOと共に活動していました。活動も首都のカトマンズのみならず、バスを使って遠くの地方の村々にも足を伸ばしました。



ネパールが教えてくれるもの


ネパールに身を置き暮らすようになってからは、ネパールの村の良さにも気づきます。


日本などの先進国にいると忙しさに追われるという言葉もありますが、「忙しさ」を求めている日本人がいるような気がするのです。

全員とは言いませんが、以前の私は「忙しい自分」に何か安心も覚えていました。


しかし、ネパールの村での生活は違います。朝は朝日とともに起き、片手間で終わるような最低限の仕事をして、友達とお茶を飲み、家族とご飯を食べ、太陽が沈むとともに寝る生活。こんな生活が何日も続くのです。


ネパールで暮らし、村での生活をしていた時にハッとしました。

もしかすると日本での自分は何かを追い求めすぎていたのでは、と考えるようになったのです。


幸せは、追い求めるものではく、日常の中にあるもの。天気が晴れて、山が綺麗に見えて、友達とお茶飲んでご飯が食べられる。これ以上なにを望んでいたのだろう。



幸せのかたち

幸せは2種類あると思います。夢を追いかけた先に幸せはあるかもしれないが、今の自分の中を見渡せば、その中にもまた別の幸せがあるかもしれない。


ネパールの村から教えてもらったことです。

ネパールで生活を始めて、いろんな人との出会い新たな気づきの中から、新しい自分とも出会えるようになりました。


そんなネパールで生活して3年。

活動も年々大きくなり、今年は今までで一番大きなことができるかもしれない、そう思っていた時でした。


新型コロナウィルスの猛威が襲ったのです。


ロックダウン政策の開始


2020年3月24日。

ネパールのロックダウンの政策が始りました。

街はすぐさまもぬけの殻になり「Stay Home Stay Safe」のメッセージがネパール人同士で頻繁に交わされました。



2ヶ月前のネパールはまだ感染者が数人程度で比較的、平和な様相を見せていました。

しかし、ネパール政府は世界の中でも早めのロックダウン政策に踏み切りました。

ネパールでは医療機関が他国に比べると不足しており、一度、感染が広まってしまえば防ぐ事は難しくなるのです。医療の問題は日本人である私が感じている話というわけでなく、ネパール人もよく口にすることです。


政府の「経済よりも命を守ることが優先」との方針の下、ネパールの国民もロックダウンの政策に従い耐える時だと、じっと家の中で過ごしておりました。



「ロックダウンの解除は延期します」


ネパールはロックダウンという施策をしたおかげで新たな感染者はほとんど増えておりませんでした。感染者も数十人程度で保っていたのですが、世界のまだ落ち着いていない状況をかんがみると、政府もロックダウンを解除することはできませんでした。

ですが、まだロックダウンに耐えうる気力や体力もあり、経済の停滞よりもコロナの脅威の方が勝っていました。ネパールの国民も政府の方針にも納得はしていました。止まない雨はないように、また今まで通りの日々がまたすぐに訪れることを信じていました。


「再びロックダウンの解除は延期をします」


5月に入ってから再びロックダウンの解除の延期が発表されました。

長引くロックダウン。5月に入ってから、徐々に悲鳴のような言葉も混じって聞こえ始めました。

「ロックダウンで仕事がなくて、本当に食べるものがないんです」

これまで各所で支援活動を行ってきた私あてに、こんなメッセージが何通も入るのです。


今、私は首都のカトマンズで暮らしています。

この長引くロックダウンの現状の「村で食べるものがない」という声は、遠い話ではなく、耳元で言っているように聞こえるのです。なぜなら首都のカトマンズでも、買い物のために外に出たときに、物乞いをしている人の数は増え、ロックダウンでの国の経済の歪みを目の当たりにしているからです。


ただ、このロックダウンさえ解除されれば・・・あと少し耐えれば大丈夫だろう。そう信じ、祈ることしかできませんでした。


悪夢のような知らせ


「ネパールでコロナ感染者が急激に増え始めた」


5月半ば、悪夢のような知らせでした。

ここまで耐えに耐え、万全な対策をとっていたにも関わらず、ネパールでのコロナの感染者が日に日に増えていくのです。


隣国インドでコロナの感染が拡大し、インドに出稼ぎに行っていたネパール人の帰国などが主な要因だそう。万全の対策をして、どれだけ予防を施しても、感染者が増えてしまっているのがネパールの今なのです。


感染症の歴史を見てみえると、過去に流行した感染症も、まずは先進国ではやり、その後、先進国が落ち着いた段階でネパールのような途上国で広まっているようです。今回のコロナも同じ系譜かもしれません。


この様子だとロックダウンはさらに長期戦になります。

政府もロックダウンにより疲弊している国民がいる事は承知しているものの、「経済よりも命を守ることが優先」と、再びロックダウンを延長する指針を発表しています。コロナの感染者の増加が収まるまで、ロックダウンは続くのだと思います。


農村には届かない食料


「もう食べるものがじゃがいもしかない村の人々が数多くいます。大変困っています」


カトマンズから30キロほどにある、小さな村、ジタリポカリ村のサビナさんが私にこう連絡をしてくれました。

このジタリポカリ村はネパールのカースト制度での最下層のダリットと呼ばれる人たちが生活してる村です。

この村には日本のあるNGOが村の発展のために村の人を研修生として、日本に留学させる制度を行っていました。サビナさんはその研修生として、日本で1年間、日本語を覚え、それ以外にも公衆衛生や人権について勉強をしていました。


ジタリポカリ村の景色をバックに微笑むサビナさん


私も一度ジタリポカリ村に訪れ、サビナさんにお会いした事があります。

サビナさんの凜とした一本芯が通ったたたずまい。たった1年しか日本に留学していないのに日本語は堪能で、会話からも知的さ、そして人を思いやる気持ちがにじみ出ているのがわかるのです。


サビナさんは、村から出稼ぎをしている人や、日雇いの仕事をしていた人たちは仕事がなく、もう食べ物を買うすべがないという村の状況を、自身も辛そうになりながらも、伝えてくれました。

首都のカトマンズでは、様々なNGO団体などが配給などをしていて飢えをしのぐ事は可能かもしれません。しかし、首都から離れれば離れるだけ、どうしても、食事も遠くなっていくのです。


ネパールの状況について、僕は、NPO法人のDREAM-Hackの代表の菅に相談をしました。

DREAM-Hackはネパールの農村の水道の問題や教育の支援を続けてきた法人で、村の現状について情報があるかと思ったからです。

菅からも話を聞くと、DREAM-Hackが今まで関わっていた村も、サビナさんの村と同じようにSOSの声をあげている事が分かりました。


ネパールの良さである、ネパールの人たち。

その人たちが今、ロックダウンの影響により、食事が困難な状況下にいるのです。



そこで今回、コロナの影響を受けたジタリポカリ村を含む、ネパールの農村200世帯へ食事を届けるプロジェクトを立ち上げることに決めました。


このプロジェクトを通してたくさんの愛が届き、多くの人たちがこの過酷なロックダウンが続く影響の中でも、平穏な世界に足をつける事ができるように。

そして時代とともに変わりゆく世界の中で、またネパールの人たちが笑い、優しさがずっと残ってくれますように。


どうか『ネパールの優しさを変えないためにも』。



NPO法人DREAM-Hackについて



私たちDREAM-Hackは、「#国際協力のテーマパーク」を作るべく、性別・国籍・社会的立場に関係なく、誰もが夢に向かって今までにないワクワクを追い求めることができるように ①人財育成 ②国際開発 ③ソーシャルビジネス の3本柱で事業を展開しています。


特にネパールでは、教育支援や人身売買の被害を受けた女性へのサポート、農業支援などあらゆる角度から現地の人達と協力して活動しています。


中でも、今回の支援先でもあるチェパン村ではネパール大地震復興支援として、壊れた貯水設備の建設を行いました。これにより、より水へのアクセスがしやすくなり、震災後、重い水瓶を持って往復2時間も水汲みに行っていた状況が改善されました。また、チェパン村・バセニタール村・ブンジ村にある小学校に教育物資の支援を行いました。さらに、高校生と協力して、チェパン族・バセニタール村の子どもを対象に衣服の寄付も行い、わずかながら教育の質や生活の質の向上に努めています。



【DREAM-Hack代表 菅からのメッセージ】


新型コロナウィルスが終息したら・・・

誰もがコロナ終息後にやりたいことや夢を思い描いていると思います。


私の夢は、すぐにでもまたネパールの大切な人に会いに行きたい。そして一緒に歌って、踊って、食べて、生活がしたい。


ネパールの村の人たちにも、もちろん夢があります。

それは、もしかしたら、「バレーボールがしたい」なんて日常的なものかもしれません。


でも、私たちはそんな夢も一緒に追いかけます。

誰もが自らの夢を一生懸命追いかけて、一緒にワクワクできる仲間でありたい。


アフターコロナで、環境は変わっても、その理念は変わりません。


私たちが繋がっている大切な人たちと一緒に、また笑顔で話せる日がくるように。


私たちが今できることで、大切な人たちを守れるように

皆様、ご支援をお願いいたします。


特定非営利活動法人DREAM-Hack 代表理事 菅勇輝